容疑者親族に立て続けにマイクを向ける愚
今日の書き手:古越 幸太(ぼくら社副社長)
ノコギリを持った24歳の男性がAKB48の握手会でメンバーを切りつける事件がありました。
なぜ彼は刃を振るったのか、メンバーの容態はどうなのか。今後の握手会をどうするのかなど議論は尽きません。
そんな中、多くの記者がこぞって容疑者の母親へコメントを取りに行きました。
母親は25日深夜に自宅前で報道陣の取材に応じた。梅田容疑者について「アイドルが好きだったこともないし、AKBの話を聞いたこともない。人見知りなので握手会に行くとは思えない」と話した。
「大変なことをしてくれた。何でこんなことをしたのか…。どうやって謝ればいいのかわかりません」と時折手で顔を覆いながら声を絞り出した。
大勢の記者が容疑者家族の玄関前でチャイムを鳴らす姿を思い浮かべると、なんともいえない気持ちになります。
果たして成人を過ぎた子どもの犯罪に、どこまで親の責任が問われるのでしょうか。
「じゃあ、親に責任はまったくないのか」という論調は理解できます。ただ、それは両親が自らの呵責において表すものであって、外部の人間が勝手に押しかけて「どう考えているのか?」と問いただすものではないように思います。
まして、部外者である私たちが本当に知りたい情報なのでしょうか。
容疑者の幼少時代のエピソードも同様です。
卒業文集にどんなことを書いていたのか。友達はいたのか、コミュニケーションは取れていたのか、アルバイト先ではどうだったのか。これらもどこか“普通”という文脈から逸れたポイントを見つけ出し、「ほら、やっぱり」と溜飲を下げるための取材のように映ります。
こんな私生活なら犯罪を犯すような人物であるのもやむなし、という安直な納得感を得ることが犯罪の抑止に繋がるでしょうか。往々にして同様な属性を持つ人たちの生きづらさが生まれるだけで、誰の特にもなりません。
このような取材に答えたところでメリットはないですし、かといって答えなければ取材拒否をするような両親という印象を植え付けられてしまいます。
被害者家族に求められるのは世間への説明責任ではなく警察への説明責任であり、被害者への贖罪も家庭生活が崩壊してしまってはままなりません。
チープな報道をなくすためには、私たち自身が本来分かりようもないものに対して、レッテルを貼ることで分かったつもりになりたがる癖をやめなければいけません。
そうしない限り多くの人にとって「あぁ、またこういうタイプの犯罪か」という解釈はなくならず、被害者・加害者家族・犯罪抑止の三方どのスタンスから見ても得にならない報道が続くのでしょう。
それを、マスコミのせいだと一義的に解釈する姿勢もまた同様に。
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